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【アラベスク】  第15章 薄氷の鏡



第3節 狐と鶴 [6]




「霞流さん、手が冷たい。寒いのでやめてください」
「どちらとキスをした?」
「どちらともしてません」
「嘘つきは嫌いだと言っているだろう?」
 ゆっくりと、撫でるように掌をあげていく。
「やめてください」
「強情だな」
 美鶴は歯を噛み締める。寒さからだろうか、歯がカチカチと音を立てる。
 言いたくない。霞流さんの前で、二人共とキスをしましたなどとは言いたくない。
「本当に、どちら共」
 途切れ途切れに答える美鶴の顎を、霞流は右手で強引に掴んだ。そして仰向かせる。
「こんな初心な(つら)をしていながら、実は男を手玉に取るのが特技だという女を何人も見てきた。お前もそのクチか?」
「私は、ちが、う」
「いい加減、白状をしたらどうなんだ? ん?」
 人差し指で美鶴の唇を撫でる。
「どちらとだ? 金本という長髪の方か? アレは見るからに情熱的だ。さぞや激しいキスだったんだろうなぁ」
「だから、聡とは何も」
「それとも山脇という奴か? あれはずいぶんと礼儀正しい男のようだから、無理にという事はしないだろうが」
 そこでふと言葉を切って考える。

「僕は、わかり(にく)かったですか?」

 風薫る五月、丘の上の霞流邸で初めて対面した瑠駆真は、慎二へ向かって皮肉を込めた。
「いや、アレは内に熱いモノを秘めるタイプだ。むしろあっちの方が情熱的かもしれない」
 そうして、考えながら宙を彷徨わせていた視線を、再び美鶴へ戻す。
「どうだ? 俺ともしてみないか?」
 美鶴は思わず目を見開く。荒れる呼吸も一瞬だけ止まった。
「俺もそれなりに自信はあるんだ。三人のウチで誰のが一番美味(うま)いか、教えてくれよ」
「だから、私は誰とも」
「いい加減、嘘は聞き飽きた。そういう口は塞ぐにかぎる」
 そう言って、美鶴の頬へ唇を当てる。ゆっくりと、まるで()らすように美鶴の唇を求めて頬を撫でる。
 霞流さんと、キスをする。
 美鶴はもうどうしてよいのかわからずただ身を硬直させた。藻掻いてもほとんど身動きはできないのだから無駄な事なのだろうが、今は(のが)れようという気すら起こらない。
 霞流さんとキスをする。
 耳の奥に、せせらぎが聞こえる。項を撫でる生暖かい風。見つめ合う瞳は優しくて、柔らかくて下心なんて微塵も感じられなかった。
 思い出すたび、胸が苦しくなる。あの時キスをしてしまっていたら、その後二人はどうなっていたのだろう。そう考える事もある。突き飛ばさなければよかったと考えてしまった事も、無いワケではない。
 でも、今の霞流さんは違う。
 美鶴はギュッと瞳を閉じる。
 今の霞流さんは、あの時の霞流さんとは違う。キスをしてもいいかも、などと思ってしまった霞流さんじゃない。
 でも、どちらも同じ霞流さんだ。態度や言動によって態度を変えるのは失礼ではないか。
 でも、でもっ!
 霞流の唇が美鶴の口の端に触れた。
 こんなのは嫌だっ!
 右足で思いっきり靴の爪先を踏む。
「いたっ!」
 思わず声をあげる霞流。一瞬怯んだ両手を掴んで振り解くと、二人の間に隙間ができた。両手をその間に滑り込ませ、思いっきり相手の胸を押した。
 勢いに押されて美鶴もヨロけた。身体を揺らしながら俯いた。髪の毛も揺れた。煙草の臭いが染み付いて、なんだか黴臭い。銀梅花など、どこにも無い。
 派手な音がして、霞流が建物に激突したのがわかった。だがそれでも美鶴はしばらく顔をあげる事ができなかった。俯いたまま、乱れた呼吸を整える。
 私は馬鹿なのか?
 両手を伸ばしたまま美鶴は思う。
 私は嘘つきなのか? それとも見栄っ張りなのか?

「本当は俺にこうされたいと思っているんじゃないのか?」

 わからない。本当は自分は、霞流にこのような行為をしてもらいたいと思っているのだろうか?

「簡単に許してしまうんだな」

 私は、私は本当は、そういう人間なのだろうか?
 背中にジンワリと残る霞流の温もり。
 暖かい。
 今になって暖かいと思う。
 なぜこんな事になったのだ? 霞流さんはこんな事をする為に、わざとここへ私を(おび)き寄せたのか? それとも偶然の成り行きか? 霞流さんの単なる気粉(きまぐ)れか?
 私は?
 私はどうしてここに来た? なぜ霞流さんを追いかけてきたのだ?
 それは、霞流さんと話がしたくて。
 何の話を? 霞流と何を話そうとした?
 答えられない。瞳を閉じる。
 自分は、本当はこういう展開になる事を予測していたのか? 期待していたのか?
 わからない。
 暗闇で瞳を開け、そこでようやく顔をあげた。
「霞流さん」
 路地から差し込む外灯の薄い明かりが、霞流のシルエットを浮かびあがらせる。壁に凭れてダラリと両手を両脇に垂らす。顔も幾分俯いているようだ。
「霞流さん?」
 震える声で再び呼びかけた時だった。
 ズルリと嫌な音がした。そのまま身が崩れる。膝が折れて壁を伝うように身が下がり、尻を地に付け、だがそれでは終わらない。壁に凭れていた上半身が大きく揺らぎ、右に傾き、霞流はそのまま地面に突っ伏してしまった。
「霞流さんっ」
 ようやく異変に気づき、慌てて駆け寄る。
「霞流さん?」
 膝を付いて声を掛けるが答えはない。
「霞流さん」
 恐る恐る両手を肩に乗せ、軽く揺らしてみる。
「霞流さん」
 ようやく唸るような声が聞こえる。ホッとはするが、何を言っているのかはわからない。
「霞流さん?」
 声を聞き取ろうと顔を覗き込もうとした時だった。
「ちょっと、何やってるの?」
 ハキハキとした声に、思わず身を跳ね上がらせる。肩に乗せていた手を慌てて引っ込め、屈ませていた身を起こした。見ると、ユンミが片手を腰に当て、路地からこちらを覗きこんでいる。
「美鶴?」
 言うなり一歩入り、そうして傍らで倒れている霞流を見つける。
「誰?」
 小走りに駆け寄り、美鶴と同じように膝を付く。
「慎ちゃんじゃないっ! どうしたの?」
 両手を伸ばして上半身を抱きかかえる。だが、顔を覗き込もうと身を屈める途中で、その動きが止まった。
「え?」
 声と共に霞流の後頭部へ添えた手を開いてまじまじと見つめる。
 嫌な予感がした。







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